風傳流槍術

当流は槍が本来利とするところの長柄(全長一丈二尺・十六角の太柄)の素槍を用いて、刺突・叩打の合戦的技法を伝える。素槍の単純さ故に、用法は無限であり、粗大巧緻は自在である。それ故、技法の修得には心・槍・体一致の修練を要する。流祖・吉成は風の姿(無形広大自在な働き)に槍法の理想を見出し、流名を風傳流とした。


由来

当流の祖は中山源兵衛吉成である。吉成は竹内流槍術(短槍)の達人であった中山角兵衛家吉から竹内流を学び、これに工夫改良を加え、槍本来の長柄の効用を確立させた素槍の流儀である。吉成は父家吉が上州高崎藩主・安藤重信に仕えていた元和五年、この地で生まれたという(一説に元和七年、下総関宿生まれという)。

 吉成は越前大野藩主・松平直良に召し抱えられた。延宝六年直良没後、江州彦根に移り、井伊家の藩士に槍術を教えたが、ここでの仕官叶わず江戸に下った。この地で槍術を教えたが、旗本金田遠江守正勝の推挙で美濃大垣藩主・戸田氏信に仕える。

 天和元年、氏信が没するとまたまた浪人し、同国樽井に住んだ。その後天和二年、越前大野で仕えた松平直良の子・若狭守直明が大野から播州・明石六万石に国替えとなり、直明は吉成のことを聞いて召し出し、合力米三十人扶持で松平家に帰参させた。

 大聖寺藩への伝統は、吉成が十数年間の大野在藩時代に大聖寺藩士・奥村助六が、大野において吉成から直接習得し、自藩に伝えたのが始まりである。これより、風傳流槍術は大聖寺藩の正規武術に取り入れられ、奥村家が代々師範を務めた。廃藩当時、最後の師範(助教)であった高橋寛(奥村雅左衛門)は大聖寺町長などの公職に携わる傍ら、旧藩伝統の武道振興に尽力し、明治・大正時代には大日本武徳会で活躍、大正十三年、槍術藩士の称号を受けた。

 守岡豊三は大聖寺藩士・守岡鉱太郎(正智流槍術師範)の三男に生まれ、大正年間に高橋寛より風傳流槍術を教伝され、当流の振興に努め、昭和五十九年七月に風傳流槍術振興会を設立して道統保存の礎を築いた。守岡豊三師範の教伝を受けた今西春禎は、先師の遺志により守岡師範の女婿・高村善政氏(宗家預かり)から流儀の相伝を受けた。

系譜

竹内藤一郎則正 ー 竹内京八郎家正 ー 中山角兵衛家吉 ー (風傳流槍術流祖)中山源兵衛吉成 - 奥村助六 ー 奥村助丞 ー 

奥村助左衛門 ー 橋本助六 ー 奥村助三 ー 奥村助之丞 ー 奥村助左衛門 ー 奥村助十郎 ー 高橋寛 ー 守岡豊三正勝 ー 今西春禎 ー 渡邊桂